Saeri blog

恋なんていう曖昧なもののせいで選択を変えるなんて、最高じゃん

by さえり

グッとくるブログを読んだ。

彼女は前職の先輩なので、世界一周の旅に出ていたのも、それを中断して一時帰国していたのも知っていた。
けれど帰ってきた理由が、

「好きな人に会うために」

とは知らなかった。それもミャンマー行きのチケットをあっさり破棄して。

そしてブログはこう続く。

「隣にいたい。それでも、私は旅に出ることを決めた。」
https://non-kosho.goat.me/3IhzRlDZ


詳しい内容は彼女のエントリを読んで欲しいのだけれど、彼女は「好きな人に会うために」世界一周の夢をあっさり諦めて帰ってきて、「隣にいたい」のにまた旅に出て行ったのだという。

「何かを守るために、旅をやめてしまうなんて、それは本当にわたしがなりたかったわたしなのか?」何度も問いかけた。意外にも答えは、YESでも、NOでもなかった。
https://non-kosho.goat.me/3IhzRlDZ

さっきブログを読んでから30分近くずっと、涙は出ようか出るまいかと涙腺のあたりで相談をしているようなかんじがする。なにか、胸に迫るものがあった。

でも、なぜこうも胸を打たれてしまったのか、理由がまだわからない。彼女の「自分の欲求に忠実なところ」が羨ましかったのだろうか?

わたし自身も自分の欲求に従って生きてきた方だと思っている。仕事も生き方も、自分の欲求をしっかり見つめて選択して生きてきたと信じている。

なのになぜだかいまのわたしには、彼女がまぶしく思えてしまった。

好きな人に会うために自分の何かをあっさり手放したこと、
それでも結局、彼の隣にいることよりも自分の何かのためにまた旅にでたこと、
その選択をYESともNOとも言えない正直な気持ちで捉えていること、
そしてそれらすべてを文章にしてしまえる強さと、
それほどまでの”衝動”があることも。

自分の欲求に忠実に生きたい、というのが難しいときがある。それは勇気の問題だけではない。欲求はしばしばぶつかり合うからだ。

「好きだけど、別れたい」
「知りたいけど、知りたくない」
「進みたいけど、留まりたい」
「会いたいけど、会いたくない」
「信じたいけど、信じられない」

全部、欲求のぶつかり合い。誰かに強制されているものではなく、自分自身が同時に両方を望んでしまっている欲張りな状態。その気持ちを天秤にかけて、重さを測って、明らかな違いがあればどれだけ楽か。

けれど欲求の重さは測れない。そうしてわたしはなにかを選択をする。自分が信じられるなにかを選択する。それは大抵自分の中にある信念に基づいていることが多い。

そのとき、わたしは「恋」を信じられない。

恋という感情に対する、自分の曖昧な心を信じきることができない。

それで結局「恋」という感情よりも「自分の中にある信念」のほうを選んでしまう。
恋においては、「昨日はこう思ったけれど、今日はこう思う」が存在する世界だと思っているから。

なんにでも”一貫性”とやらがあれば楽だ。そうすれば自分のことをもっと信頼していられる。なのに、昨日と今日で思っていることが違う世界に、どんな風に飛び込めというんだろう。

行くんじゃなかった。言うんじゃなかった。別れるんじゃなかった。
行けばよかった。言えばよかった。別れたらよかった。

こう思う時、「選択を間違えたかな」と思う。
けれど実際にはどれも間違えているわけではなく、その都度欲求の重さが異なっているだけなのだろう。そんな単純なことが、なぜだかわたしには難しく思えてしまう。恋にも仕事にも自由奔放に生きているように思っていたけれど、どこか恋を信じきれないところがあって、それがたぶんわたしのコンプレックスでもあるんだろう。

だから彼女がまぶしかった。

恋なんていう曖昧なもののために自分の選択を変えて
恋なんていう曖昧なものに引っ張られないで自分の選択を変える。

そういうあやふやな自分と恋に、そのままでいいと言えることが。

恋なんていう曖昧なもののせいで、自分の選択を変えるなんて最高じゃん。彼女には、恋ひとつで夢にはしってほしい。恋ひとつで夢をあきらめて欲しい。わたしには、どっちも同じことのような気がする。

わたしももっと自分の心が望む方に走って行きたい。もっと自分に対して、責任をとらない姿勢で。

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